Journal 雑記

なんで神社をお参りするのか考えた結果

新年早々、子供を連れて家族で近所の神社へお参りした時のこと。

御手水で手と口を清め、神社に手を合わせました。私の真似をして娘も同じようにするのがとてもかわいかったのですが、夫はその辺をプラプラ。それを見た娘が「パパはなんでやらないの?」と聞きました。

「パパは神様信じてないから。」と夫が一言。

「色んな人がいるからね、信じるも信じないも個人の自由なのよ。」と、3歳が理解する内容かどうかさておき、一応フォローめいた言葉を添えました。

そして、おみくじやお札を買って、神社を後にしましたが、うっすらと心に引っかかった出来事でした。

米粒1つに7人の神様

私は、よくある日本人タイプで、初詣や気が向いたら神社にお参りして、葬式やお盆などでお寺に行き、何か特別に信仰してるものはありません。

もう亡くなりましたが、大正生まれの祖母は、(おそらく)その時代の多くの日本人がそうしていたように、朝は仏壇に手を合わせて、ご先祖様に感謝して、神棚にお水を上げる。お正月になったら、年神様を迎えるのにしめ縄を飾る、などの習慣はありました。

そんな祖母はよく、「米粒1つには7人の神様が住んでるから、残してはいけない。」と言っていました。3粒残したら、21人の祟りがくるの?と、子供ながらに少し怖くなって、一粒も残さないように食べるのが習慣になりました。

現代、年を取って思うのは、ご飯を食べるのに、お米はどこから来たのかを考えると、田植えをする人、農具を作る人、お水を管理する人、お米を運ぶ人、その道路を作った人、運ぶものを作った人、それはそれは数えきれない人たちが関わっているだろうから、目には見えないけど、一粒につき7人くらい関わっていると言っても過言ではないかも?と思うようになりました。

神道は感謝の宗教

神道という言葉は、仏教が伝わった後に出来たという記事をどこかで読んだことがあります。それまで、先祖や自然をよろずの神として崇める習慣があったところに、仏教が入り、「あら、それ仏教っていうの?じゃあ、私たちが今までやってきたやつは神道って呼ぶわ。」みたいな感じでしょうか…?ここで神道と仏教が混ざり合ったのが日本の宗教なのかな。

岡田斗司夫先生のyoutube動画で、日本人の宗教観について、日本人は無宗教だと言う人が多いけれども、神社にお参りしたり、いただきますと手を合わせたりなど、習慣として宗教が身についてて、それは宗教が目指すところの最終段階のようなことを話されていたのを見たことがあって。。違ったかな。なんかニュアンス的に、宗教が習慣になるのが最強、的なことを話されていて、なるほどーって思ったことがありました。

私は海外ドラマが好きでよく見ます。トムハンクスが製作に関わったビッグラブというモルモン教の家族のドラマ、ネットフリックスのグリーンリーフなど、宗教一家に関わるお話など、おお!なんとも興味深い!と思って、見るのが止められないドラマでした。こういった特別に宗教がテーマではないドラマでも、恋愛ドラマ、学園もの、いろんなドラマで、神様にお祈りするシーンなどあったり、バイブルに書かれてることがセリフあったり、生活に宗教が浸透してるのが伺えます。

私は、そういうドラマからでしか他宗教の知識は得てないので、間違った解釈かもしれませんが、キリスト教は許しの宗教という印象を受けます。キリスト教が他人を許すことを大切にしていると感じるのに対し、日本の神道というのは、感謝を重んじる宗教なのでは?と理解するようになりました。

神社や神棚は感謝を伝える通信機器

ご飯を食べる前には「いただきます」と手を合わせて感謝してから食べる。食べ終わったら「ご馳走様でした」と改めて感謝する。物を大事に使うようにする、もったいない精神もあります。

この手に持った物や食べ物、身の回りにある全てに関わっているであろう人達を見つけ出して、一人一人会って感謝するのは無理なので、その目の前にいないけど感謝したい人達に、ありがとうの念を届けるため、神社や神棚に手を合わせる。そしたら、よし!まかしとけ!っつって、その遠くにいる感謝したい人達に、何かしら暖かい気持ちや良い出来事なんか届けてくれるんじゃないかな?と。

感謝の通信機器のような役割が神社や神棚なのではないか?という考えに至りました。

これを夫に伝えたところ、一理ある、という言葉を得ました。うちの夫から「一理ある」という言葉を引き出すのは難しいんですよ。なのでとても満足。うまくまとまっていないかもしれませんが、我ながら感謝の通信機器という考え方がしっくりきて、積極的に神棚や神社で手を合わせて感謝したい気持ちになりました。もし子供に神社のことや宗教について質問されたらこの話をしようと思います。

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